ボヘミアンラプソディー<クイーンの真実>

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こんにちは!コンテンツプロデューサー寺嶋みほです。

ちょっと遅まきになりましたが話題映画の『ボヘミアン・ラプソディー』をみてきました。

私はクイーンの曲はほとんど知らない、メンバーのこともしらない状態で行きました。

映画を見ると聞いたことのある曲がたくさんありました。

CMや映画のシーンなどで聞いていたのですね。

※ボヘミアン・ラプソディーは聞いたことがなかったです。

全くメンバーを知らなくても、曲を知らなくても楽しめる映画ですよ。

ぜひお近くの映画館でみるか、ビデオが公開されたらみてみてくださいね。

 

 

本日はそんなボヘミアン・ラプソディーの主人公フレディの生き様が映画よりももっと過酷だったという話をします。

現実と映画のちがい….

 

映画と現実の3つのちがい

エイズ発覚は実はライブエイド以後だった。

フレディはライヴ・エイド前に自身のHIV感染を知らなかった

 

ライブエイド以後。

それまでバンド仲間も一切知ることはなかった。

 

劇中のライヴ・エイドに向けたリハーサル中、フレディはメンバーにHIV感染を告げる。

だが、彼は病気を隠し通し、音楽へ全精力を傾けたいと言う。

事実は、フレディがHIV感染を知った時期はいまだにはっきりとしないが、

1986年から1987年の間だろうというのが大方の見方だ。

つまり、ライヴ・エイドのリハーサル中のフレディは病気のことなど全く知らなかったのである。

 

マーキュリーは1987年春にAIDSと診断され、その後徐々に周囲の人たちへ自分の病状について明かし始めた。

「彼は打ち合わせのために自宅へ僕らを集め、真実を明かした。とにかく僕らは、その事実を受け入れ始めなければならなかった」とテイラーは、ドキュメンタリー『Freddie Mercury: The Untold Story』の中で語っている。

弱ってやせ細っていくマーキュリーの姿に、不滅に見えたフロントマンが重病にかかっているのではないかというメディアの推測が飛び交った。

しかしバンドは全員一致して、いかなる問題もないと強く否定した。

「僕らは全てを秘密にした。嘘をついていたんだ。とにかく彼を守りたかった」とメイは、

ドキュメンタリー『輝ける日々』の中で語っている。

 

メンバーの揉め事なかった
クイーンは一度も解散していない。
1985年のライヴ・エイドでのパフォーマンスに向けて盛り上げるためか、
最も現実と離れたストーリーラインが用意された。
フレディが密かに400万ドルのソロ・プロジェクトにサインし、
バンドとしばらく距離を置きたいと暴露するシーンがある。
当然、残りの3人は激怒し、それぞれの道を進む。
しかし、事実はこうだ。
ほぼ10年間ずっとツアーを続けたメンバーたちは、
1983年になる頃には燃え尽きていた。全員が休暇を必要としていたのだ。
劇中ではメンバーがフレディに何年も口をきかなかった雰囲気を醸しているが、彼らは1983年の後期にはアルバム『ザ・ワークス/The Works』の制作を始めており、疎遠になったことは一度もなかった。
※こちら上が本物のクイーン。下が今回の役者たち。すごく似ている。
ジョン・ディーコンはオリジナル・ベーシストではなかった
映画では、1970年のクイーンの初コンサートでジョン・ディーコンがベースを弾いている。
しかし、実際は、ディーコンはバンドが試した4人目のベーシストで、加入したのが1971年だ。
劇中、最初のコンサートで演奏している「炎のロックン・ロール/Keep Yourself Alive」は彼らのデビュー・アルバム収録の初期の楽曲だった。
などなど少し映画をドラマティックにするために史実とは異なる点も盛り込まれている。
しかしこれもメンバーの監修の元行われているので、許容範囲だろう。
そのほかに面白いエピソードをご紹介します。

 

映画では描かれなかった彼の真実

フレディーが“クイーンの紋章”をデザインした
“クイーン”の名前がフレディ・マーキュリーの考案だということには何の驚きもない。
バンド名の候補には、“ビルド・ユア・オウン・ボート”、“ザ・グランド・ダンス”、“ザ・リッチ・キッズ”なども挙げられていたが、いずれもシンガーのビジョンに叶うものではなかった。
「クイーンのコンセプトは、威厳を持ち壮大であることだ。僕らはダンディでいたいんだ。インパクトのある斬新なバンドでありたい」

と彼は、英国の音楽専門週刊誌メロディ・メイカーに語っている。クイーンは期待通りの道を歩んだ。
マーキュリーはバンド名だけでなく、王家の紋章をイメージした特徴あるロゴもデザインした。

ロニー・ウッドやピート・タウンゼントも通ったロンドンのイーリング・アート・カレッジで技術を磨いた彼は、デビュー・アルバムのジャケット用に紋章を描き始めていた。
ロゴは、4人のメンバーそれぞれのゾディアック・サインをモチーフにデザインされている。
ジョン・ディーコンとロジャー・テイラーは2匹の獅子で、ブライアン・メイは蟹。
マーキュリー自身は2人の妖精で表現しているが、乙女座をイメージしたものだと彼は主張している。
上部には希望と復活のシンボルである不死鳥が大きく描かれているが、これはマーキュリーが卒業したセント・ピーターズ・スクールの紋章から借用している。ロゴの中心部にはエレガントな“Q”の文字が描かれ、当然その中には王冠が配置されている。

 

ダイアナ妃を変装させ、ゲイクラブへ連れ出した
1980年代半ばまでにクイーンは、バンドの名前(クイーン)を超えて王室と近い関係になっていた。
マーキュリーは、後にウェールズ公妃となるレディ・ダイアナ・スペンサー時代から友人関係にあった。
“庶民のプリンセス”は、その飾らない物腰で国民から愛された。
しかし常にメディアに追い回されることは、若き王室の一員にとって大きな負担となっていた。

そこでマーキュリーは、彼女を夜の街へ連れ出そうと計画した。

女優のクレオ・ロコスが2013年に出版した回顧録によると、ダイアナとマーキュリーは英国のコメディアン、ケニー・エヴェレットの自宅で午後を過ごしていた。シャンパンを飲みながら、テレビ番組『ザ・ゴールデン・ガールズ』の再放送を音を消して流しながら、セリフを卑猥な言葉に置き換えてふざけていた。

その晩の予定を尋ねるダイアナに対しマーキュリーは、皆でロイヤル・ヴォクスホール・タヴァーンへ行く予定だと答えた。

ロンドンで最も有名なゲイクラブだった。プリンセスは一緒に行って発散したい、と言った。

ロイヤル・ヴォクスホールは乱暴な連中が集まることで有名で、常連客同士でよく喧嘩が起きていた。

プリンセスに適した場所ではなかった。

「私たちは反対したの。“もしもあなたがゲイバーでの喧嘩に巻き込まれたりしたら、明日の見出しはどうなることでしょう?”」と言うロコスに対しダイアナは、すっかりいたずらっ子モードになっていた。そこでフレディが言った。「よし、このお嬢さんを楽しませてやろう」

計画を成功させるためには、変装が必須だった。

エヴェレットは、自分が着ようと思っていた服を彼女に提供した。
彼女はアーミージャケットを羽織り、黒の飛行操縦士用メガネをかけ、レザーキャップで髪を隠した。
「薄明かりの下で、現代の世界で最も有名な人物は、風変わりな格好をしたゲイの男性モデルっぽく見えた」とロコスは振り返る。
彼らはダイアナを、誰にも気づかれずにどうにかバーへ忍び込ませた。マーキュリー、エヴェレット、ロコスの方に気を取られた客たちは、変装したプリンセスのことなど全く気に留めなかった。そのため彼女は自分自身でドリンクをオーダーできるほどだった。
「レザーを着た人だかりの中を少しずつ移動しながら、どうにかバーまで行き着いた。私たちはいたずらな小学生のように、お互いを突きあった。ダイアナとフレディはクスクス笑い、そして彼女は本当に白ワインとビールを自分でオーダーした。オーダーし終えた時、私たちはお互い目を合わせて、皆で冒険の旅の勝利を喜んだ。やった!」
あまり図に乗らず、彼らはわずか20分程でその場を後にした。
しかしダイアナにとって、短時間でも有名人の重荷を取り除けたことは、貴重だった。
「またやらなくちゃ!」と、彼女はケンジントン宮殿への帰り道も興奮していたという。
1990年代初めにマーキュリーとエヴェレットが、AIDSが原因で相次いでこの世を去ると、
ダイアナは英国AIDS基金の後援者となった。
同基金は、英国を代表するAIDS患者支援組織のひとつだ。
ダイアナのロイヤル・ヴォクスホール・タヴァーンでの一夜は2016年にミュージカル化され、同クラブで上演された。

 

フレディーの埋葬地を秘密
避けられない死を前にしてマーキュリーは、準備を始めていた。
「日曜のランチの後に突然、“僕を葬って欲しい場所は決めている。でも誰にも知らせないで欲しい。掘り返されるのは嫌だ。ただ安らかに眠りたいんだ”って言われたの」
1991年11月24日、マーキュリーはAIDSが原因の気管支肺炎によりこの世を去った。
彼の亡骸は、ロンドン西部にあるケンサル・グリーン墓地で火葬された。
遺灰は壺に入れられオースティンの寝室に2年間置かれていたが、その後彼女は密かに彼の希望した場所へと移した。
「普段通りでないことをしようとしていると他人に悟られたくなかった。だから“美顔エステに行ってくる”と言って出かけたの。説得力のある理由が必要だった。タイミングを計るのが難しかったわ」と彼女は、2013年にデイリー・メール紙に語っている。
「壺を持ってこっそりと家を抜け出した。スタッフに悟られないように、いつも通りに振る舞う必要があったの。スタッフはゴシップ好きで、喋らずにはいられないし。彼の遺志の通り、誰にも埋葬場所が知られることはないわ」
マーキュリーの両親にも場所は秘密にされているようだが、墓参りをしたいと思うファンは、場所を突き止めようとしてきた。
マーキュリーの出身地であるザンジバルだという者もいれば、自宅の庭に生える桜の木の下だと信じている者もいる。
2013年に謎は解けたと思われた。マーキュリーの出生時の名前(Farrokh Bulsara)と日付(5 Sept. 1946 – 24 Nov. 1991)の刻まれた墓石が、ケンサル・グリーン墓地で見つかったのだ。“Pour Etre Toujours Pres De Toi Avec Tout Mon Amour – M.”とフランス語で書かれたメッセージの最後の“M”は、メアリー・オースティンを指すに違いない、と多くの人が推測した。
オースティン自身は、「フレディは絶対にその墓地にはいない」と否定している。
その後、銘板は取り外された。今なお、彼の埋葬地は不明のままだ。

 

彼の最後の姿
1990年の年末までにバンドはアルバム『イニュエンドウ』を完成させた。
同アルバムには、哀愁漂うバラード『輝ける日々』も収録されている。
マーキュリーの身体的な衰えを直接的に表現している訳ではないが、クイーンの初期の時代を思い起こさせる。
彼の健康状態に対する不安は、1991年5月30日に撮影された同曲のミュージック・ビデオで急激に高まった。
モノクロで撮影したものの、AIDSによって蝕まれるマーキュリーの身体の状態をごまかすことはできなかった。
「彼は何時間もかけてメイクし、気持ちを落ち着けて順調であるように見せていた。彼はこのビデオを通じてサヨナラを言っているんだ」とメイは、2011年にインディペンデント紙に語っている。

マーキュリーの可愛がった猫たちを描いた特注のベストを着た最後のシーンで彼は、カメラに向かって微笑み、「I still love you」とささやく。これがカメラの前で発した彼の最期の言葉になった。

撮影の数週間前、マーキュリーはスイスのモントルーに滞在し、弱っていく身体の状態が許す限りレコーディングを続けていた。

メイによると、レコーディングはマーキュリーに正常な感覚を保たせていたという。

「この時フレディは言ったんだ。“曲を書いてくれ。もう長くないことはわかってる。歌詞を書き続けてくれ。どんどん俺にやらせてくれ…俺は歌うから。君らが後で好きなようにして完成させてくれ”ってね」とメイは、ドキュメンタリー『輝ける日々』で証言している。

プロデューサーのデイヴ・リチャーズは、セッションを急ぐ必要性を感じていた。楽器類を調整するのに何時間もかける時代は過去の話だ。「曲を作りながらも彼は死に近づいていった。レコーディングを終えたら死ぬだろう、と彼は自覚していた。彼は、“俺は今すぐ歌うよ。彼らの演奏を待っている時間はない。ドラム・マシンだけ鳴らしてくれ。後から彼らが仕上げてくれるから”と言った」

メイの書いたスローに盛り上がる壮大な楽曲『マザー・ラヴ』にマーキュリーは、いつもの調子で取り組んだ。

「どこからあのエネルギーが出てきたのだろうか」と後にメイは、テレグラフ紙に語っている。

「恐らくウォッカがエネルギー源だったろう。彼は乗っていた。少しウォーミングアップして、“一杯くれ”と言って飲み干していた。いつも銘柄はストリチナヤだった。それから“テープを回してくれ”と言って始めるんだ」 長時間立っていられず、歩くにも杖が必要だったマーキュリーは、『マザー・ラヴ』のヴォーカルをコントロール・ルームでレコーディングした。

「終わりから2番目のヴァースまでレコーディングしたところで彼が、“あまり良い調子じゃない。今日はここまでにした方がいい。

次に戻ったら仕上げるよ”と言ったんだ。でもその後彼がスタジオへ戻ることはなかった」 結局メイが最後のヴァースを歌い、曲を仕上げた。
映画以後に特集されていたTVやyoutubeに残る、彼が生きていたことの映像をみると
ライブとは全く違う姿を目にしました。
ライブでは衣装も奇抜でパワーあふれる、プラスのエネルギーに満ちた人。
しかし話す姿を見ると繊細で気遣いのできる日本が大好きなおとなしい男性。
そんな彼のギャップと様々な苦難を乗り越え、悩み抜いたからこそ
何年経っても変わらず人の心に響く曲を作ったのだろう。
死が訪れるギリギリまで仕事をし、
最後まで何かを歌で残すということに力を注いだ。
そんな彼が残した言葉。
<こんな僕がこんなことをできるようになった。
僕をみてみんなが勇気を持って挑戦してくれるようになればいい>
そう残したという。
ぜひ彼の生き様を見て欲しいと思います。
※左右がクイーンの今回監修に関わったブライアンとロジャー。
真ん中がフレディ役のラミ・マクレック